國府清水
國府清水は
神㓛皇后三韓退治の後
武庫よりこゝに至り此
霊泉を
賞じ給ふより
和泉の名はじまる
むかし
黄帝の時あるひ
堯の代
夏后の節
霊泉出る
こゝも比
例によるならんか
府中村西の入口にあり和泉國としふは此清水より起る一名和泉いづみの井ともいふ
神㓛皇后じんぐうくはうごう新羅<しらぎ/rt>を征せいし給ふ歳とし此清泉せいせん一夜やに湧出わきいづる故に和泉郡いづみのこほりを号がうす
此時いまた河内國也元正帝げんしやうてい霊亀れいき二年四月河内國大鳥おほとり和泉いづみ日根ひね三郡ぐんを割さきて和泉國とす前巻に見へたり
いにしへは清水しみづの上うへに八幡社はちまんのやしろあり或あるひは水内みづのうちの社ともいふ
延喜式ゑんぎしき神名帳には泉井上いづみいのうへの神社とあり此井稀まれなる霊泉れいせんにて常つねに清らかにすみわたり味甘あぢはひあまく茶ちやの湯ゆに用もちひ酒さけを釀かもするに佳かなり
天正年中秀吉公ひでよしこうの命めいとしてこれを汲くんで大坂の城内に運はこばしめ給ふ
抑そも〱皇后くはうぐう三韓さんかん凱旋がいせんの御時おんとき小竹宮しぬのみやに居きよし給ふこれを舊府きうふといふ
又元正げんしやう聖武しやうむの二帝ていもこゝに行宮あんきうを建たてさせ給ふこれを珍努離宮ちぬのりきうとも和泉宮いづみのみやとも穪ず
古代こだい國司こくしの舘やかたにして國府こふといひ又府中ふちうともいふ
和泉式部いづみしきぶか夫おふと橘道貞たちばなのみちさだ 源順みなもとのしたがふ 紀貫之きのつらゆき 菅原定義すがはらのさだよし等とう和泉守いづみのかみに任ぜられてみな此府中ふちうに居きよす
又後鳥羽院ごとばのゐん熊野くまの御幸ごかうの御時建仁けんにん元年十月六日平松王子ひらまつのわうじより御馬おんむまを停とゞめ歩かちより國府こふの新造しんざう御所ごしよに入御じゆぎよし給ふ事かの御幸記ごかうのきに見へたり
又源順みなもとのしたがふも和泉守いづみのかみにてこゝに居し伊賀伊勢守に任國にんこくなき事を愁て
家集
ほともなきいつみはかりにしつむ身はいかなるつみのふかきなるらん 源順
今昔こんじやく物語には大江與周たかちか大江匡衡の子母は赤染衛門が官くはん望のぞみける時に母赤染あかそめ鷹司殿たかつかさとのにかくなんよみて奉りける
おもへ君かしらの雪をうちはらひきえぬさきにといそく心を 赤染衛門
御堂みだうの殿下でんか関白くはんぱく道長みちなが公此哥を御覧して極きはめてあはれませ給ひて此和泉守にはなさせ給へる也
年所ねんしよ古き蹟あとなれば代々の天子もこゝに離宮りきうを営いとなませ給ひ公卿もこゝに居し給ふ所にして當國㝡一さいいつの舊蹟なるべし
今に見る和泉清水
「和泉清水」の碑
「和泉清水」の碑は、泉井上神社社殿を囲う瑞垣の中にあります。瑞垣の格子の間から写しました。
しかし、雑草に覆われているため詳細は不明です。
泉井上神社拝殿前案内板
今に見る和泉国府
和泉国府廰趾碑
和泉国由来 御館山国府庁跡碑
和泉国由来 御館山国府庁跡
1、和泉地名の由来
仲哀天皇九年神功皇后が行啓なされた時、今の和泉国のある地中(現泉井上神社境内)突然清水が湧きだし流れて河川となった。
汲んで味わうと甘露のごとく人々は皆驚きこの霊泉湧出の地を泉郡と名付けた伝承されている。
1、和泉国の創設
続日本紀に元正天皇霊亀二年(716年)「三月癸卯割河内国和泉日根両郡令供珍努宮」又「夏四月甲子割大鳥和泉日根三郡始置和泉監」とあり河内国より三郡(大鳥・和泉・日根)を割つて始めて和泉監と言う行政府を現在の和泉府中の地に置いた。
その後、孝謙天皇の天平宝字元年五月(757年)には正式に国司をおいて国号を和泉国として後世に及んだ。
又、国司として紀貫之、凡河内躬恒、源順など著名な歌人が多く赴任してきた。
赤染衛門
人よりもわきて嬉しきいづみかな. 雪げの水のまさるなるべし
昭和62年11月 和泉南ロータリークラブ
泉井上神社は、巻3-00900 総社で紹介しています。